パパ読ンデ

光を越え、事象の地平面で逢いましょう

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へんしんマラソン



様々な選手が出場する

このマラソン大会で走るとなぜか変身してしまいます。

カマキリが「かまっかまっ」と叫びながら走ると、

何度も言っているうちに、まっかまっか真っ赤になって疲れてしまいます。

バネが走ればネバネバの納豆になってしまうし、

きんぞうじいさんは雑巾になってしまい、

「やはりへんしんマラソンは、おそろしいのう」とつぶやきます。

言葉を何度も唱えているうちに、

尻と頭がくっついて違う言葉に変わるへんしんマラソン。

さて、最期にゆうしょうするのは誰でしょうか。



この絵本に出会ったのは三年前、

長男の保育園へ日曜参観にいった時でした。

担任の先生は絵本の読み聞かせに力を入れているらしく、

毎日絵本を読んでいるとのことでした。

へんしんマラソンを読む先生は、

父兄が詰った教室でもいつもどおりに臨場感溢れる語り口で、

園児たちもお気に入りのシーンになると笑ったりはしゃいだり、

さすが読み聞かせのプロといった趣でした。

壁際に立っていた私も先生の話に引き込まれて、

こんな面白い絵本があるんだなと感心しながら、

子供たちと同じようにお話を楽しませてもらいました。

こういう楽しい絵本は、

作者のかたもきっと楽しんで創っているのではないでしょうか。

社会生活をおくっていると、

とかく常識や外聞などを気にしがちになってしまいます。

他人に変に思われないよう、無難にあたりまえのことだけをする、

それが最善だと信じて日々をやり過ごしています。

でも、こんな突拍子もないマラソン大会があったら

と想像してみると、

固まった思考に風穴をあけてくれそうです。

論理的、効率的な制約からしばし解放され、

縦横に思考を飛躍するのは、

子供だけでなく大人にも心地よいのではないでしょうか。




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  1. 2011/11/03(木) 23:10:35|
  2. 絵本
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だめよ、デイビッド



デイビッドのママはいつも

「だめよ、デイビッド」と言います。

壁にラクガキ、全身泥まみれ、

食べ物で遊び、家の中で野球をすると、

ママはデイビッドに「NO」を言い渡します。

でもママは息子の行動を監視して怒るだけの煙たい存在ではありません。

花瓶を割ってべそをかいていたら「大好きよ」と抱きしめてくれます。

ママの胸にしがみつくと、デイビッドは安らかに目を閉じました。



デイビッドはどこにでもいる男の子です。

ちょっと好奇心旺盛で行動的ではありますが、

男性ならこんないたずらをした覚えが誰にもあるでしょう。

私は子供の頃、ダメと言われたことはやりたくなる性分でした。

いたずらや危険な遊びなどよくやったものです。

五歳くらいの時、マッチの軸についている硫黄を食べていた覚えがあります。

母にはもちろん止められたのですが、

マッチを見つけるたびにそれを口へ運んでいました。

どうしてそんなことをしていたのでしょう。

硫黄がおいしいのだったら納得もいきますが、

記憶の限りではそんなことはありません。

その味を例えようとしても、

人間が食する物とはかけ離れた風味でしたので、

硫黄は硫黄の味と表現するしかなさそうです。

自分の意思とは無関係に生れ落ちたこの世界。

幼かった私は、親から口で説明されただけでは

世界のありようが腑に落ちなかったのかもしれません。

自らの意思で行動し、体当たりで世界の感触を確かめて、

ようやく生きる喜びを見出せたのでしょうか。

この世界に挑み、その見返りとして体験を積み重ね、

男の子は成長してゆきます。

知識を頭に詰め込むことも必要ですが、

それは幾つになってもできることです。

幼いころ、肌で味わった実体験をどれだけ持っているか、

それが男の財産になると思うのです。

そして、柔らかく包んでくれる母の温もりがあれば、

どんな困難でも挑戦しに行ける勇気が湧いてくるでしょう。

大人の男には甘えは許されません。

妻や子を守るため、常に戦い続けなければなりません。

そんな状況で力尽きそうになった時、

無条件に甘えることができた幼い日の蓄えをほんの少し舐め、

微かな甘みをエネルギーに変えて、男は再び立ち上がるのです。

だからデイビッドはこれでよいのです。

いいね、デイビッドなのです。

世界中のデイビッド及び大人になったデイビッドに、

是非お奨めしたい一冊です。









  1. 2011/07/26(火) 00:07:00|
  2. 絵本
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ママのだいへんしん



ママは毎日忙しい。

やることがいっぱいあって、

いつも怒ってばかり。

子供を叱るのはいやなのよといいつつ、

ガミガミぷりぷりとしています。

パパが出張で居ない夜、

カンタが一人でお風呂で遊んでいると、

同じ年頃の知らない女の子が入ってきました。

名前を尋ねるとママと同じだったので、

カンタは驚いてしまいました。

忙しいばかりの大人でいるのが嫌になり、

ママは子供になってしまったのでした。

それからは子供同士でやりたい放題。

体も洗わずに風呂ではしゃいだり、

夜中までビデオを見っぱなし。

うるさいことをいう大人はいません。

朝ごはんは好きなお菓子だけを食べます。

外で泥だらけで遊び動物を家に連れ帰り、

散らかり放題の子供の王国で、

カンタとママは大フィーバー。

しかし、カンタが夜中まどろんでいる間にパパから電話があると

ママはもとのガミガミママに戻ってしまいました。



この絵本は長男が図書館で借りてきました。

彼はいつも図書館で絵本をジャケ借りしてくるので、

長い物語だったり赤ちゃん向けだったり、

借りてきた本が私の好みと一致することは稀でした。

しかしこの絵本は随所に気の利いたユーモアがちりばめられ、

私も長男と一緒に楽しめました。

いつもガミガミうるさいママは、

大人として親としての責任に耐えきれず、

すべて放り出して子供になってしまいます。

自在にそんなことが出来たらなあ、

と夢想したことのない大人はいないのではないでしょうか。

社会に出て、家庭を築き、子を儲ければ、

人とは責任の塊で構築されているといっても過言ではありません。

ですからこの絵本のように、

奔放な子供に還れたらどんなにかよいでしょう。

そして愛しい我が子と同じ目線で交われたら、

こんなに愉快なことはないかもしれません。

実際に行うことは出来ませんが、

この絵本はそんな夢をみさせてくれます。

でも自分を主人公に当てはめた場合に、

子供になったとはいえ、

裸の母が風呂に突然現れると考えると、

現実になったら私は耐えられそうにありません。

妻だったら歓迎するのですが・・・

未だ妻と一緒にお風呂に入っている長男は、

ママが子供になったらきっと大はしゃぎしそうです。

彼は普段から、

うちに子供の女がいないと不満を漏らしていましたから。









  1. 2011/03/29(火) 23:06:40|
  2. 絵本
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ハトにうんてんさせないで




絵本を読んでいる人に向かって、

バスの運転手が頼んできます。

ちょっとでかけるのでバスをみていてくれませんか?

くれぐれもハトに運転させないで、と。

運転手がいなくなると、

ハトがそろりとやってきて、こちらに話しかけてきます。

そして自分がどれだけバスを運転したいのか

情熱的に語りだします。

でも読者は運転手に頼まれているので、

ハトに色よい返事をしないという設定で話は進みます。

ハトは懸命にこちらを口説こうとしますが、

やがて運転手が戻ってきてしまい、

ハトは落胆してうなだれてしまいます。




この絵本は次男のお気に入りで、

まだ三歳で字も読めないのに、

ページをめくると記憶してあるそこのセリフを口にします。

私は、まずタイトルが奇妙なのでこの本を手に取りました。

そしてタイトル通りの倒錯した世界に、

他人事とは思えない人生の機微を感じました。

実際はハトがバスなんか運転したいはずがないのに、

ハトの熱意に心を揺さぶられ、

なんだか外国では本当に起こっている話なのかもしれない

という気になってしまいます。

主人公のハトは別段可愛いキャラクターではないのですが、

その表情やしぐさに滲み出るような味があり、

憎めないどころか何でもしてあげたくなるような雰囲気をもっています。

私の本心ではバスを運転させてあげたいのですが、

絵本の流れではハトが運転しないよう厳しく監視している立場なので、

「本当は思う存分運転を満喫させてあげたいのに」

と、もどかしい気持ちになってしまうのです。

そして最後にがっくりと頭を垂れるハトが切ないのです。

でもそこへトラックが通りかかり、

ハトは今度そっちへ感心が移り、

私のしんみりした気分も救われます。

その辺は次男も同じ気持ちでいるようで、

ハトがこちらに運転は「だめ?」と訊ねるところで

いつも「いいよ」と返事をしています。

「ともだちになろうよ」とハトが言うと

「うん、なろうよ」と頷きます。

しかし、ハトが気に入ったからといって、

彼の運転を黙認するのは、

ハトのためにはならないかもしれません。

その力量も無い者に重い責任を伴うことをさせては、

返って痛い目をみるだけでしょう。

高校生の頃、停めてあった友人のバイクに

私は勝手に跨り、

うろ覚えの操作方法をたよりにアクセルを開けました。

発進できたことに高揚しながら、

スピードを落とさずに角を曲がった途端、

スリップして転倒。

肘と膝から血が噴出し、

修理代で夏休みにバイトで稼いだ金が消えました。

そして鳥類並みの頭脳しか持ち合わせていなかった若者は、

1年後にも、今度は自動車で同じ失敗を犯してしまいました。

この絵本のハトが、

私を遥かに凌ぐ運転技術を持ち合わせていないとも言い切れませんが、

やはりここは涙を呑んで制止するのが賢明なのでしょう。

将来ある一途なハトに、

私の轍を踏ませないためには。

  1. 2010/12/05(日) 23:58:18|
  2. 絵本
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もっとおおきなたいほうを



王様は、先祖伝来の立派な大砲を撃ってみたくて仕方がありませんでした。

そこへ家来が、川で狐が王様の好物の魚を勝手に捕っています、

と報告すると、王様は川へ大砲をもって行き、ドカンと撃ちました。

狐は逃げ、王様は大砲が撃てて大満足しました。

そこへ狐がもっと大きな大砲を押して現れ、

王様は慌ててお城へ逃げました。

そして狐のものより大きな大砲を造らせて川へ持ってゆくと、

それを見て狐は逃げてゆきました。

けれども狐がもっと大きな大砲を持ってきたので、

王様はびっくりして逃げました。

その後王様が大きな大砲を持ってゆく度に

狐がそれ以上の大砲を出してくるので、

王様は作戦を変えました。

大きさだけではなく、数の多さや見た目の派手さ、

形の面白さ、持ち運びの便利さも大事なはずだ、と。

しかしどのカテゴリーでも狐の方か勝っていました。

終いに、狐が持ち運びに便利な小さな大砲を空へ投げた途端、

大砲が枯葉に変わってしまいました。

それまで狐が持ってきた大砲は、

枯葉に魔法をかけて作ったものだったのです。

王様は怒りましたが、狐はすたこらと逃げてしまいました。

後に残った様々な大砲は捨てるわけにもゆかず、

半分に割ってお風呂にして入りました。

それから王様は大砲を撃ちたいと思わなくなりました。



この絵本は息子達に歓迎され、

たてつづけに2回読まされた後、

長男が私を引き継いで次男に読み聞かせていました。

反戦のメッセージという風でもなく、

味のある絵と、とぼけたお話が私も気に入っています。

実は私はお話の途中まで、

どうして狐が次から次へ凄い大砲を持ってこられるのか判らず、

この狐たちは悪の帝国の斥候だから

どんな武器でも思いのままなのだろうか、

なんてたわけた想像を巡らせてしまいました。

だから大砲が枯葉に変わったシーンで、

私は「やられた」と臍を噛みました。

それまで狐が出した大砲が皆葉っぱで出来ているなら、

そりゃどんな形のものでも労無く出せる筈だよ、と。

狐や狸が葉っぱで人を化かすなんて

昔話では基本中の基本なのに、

昔話に親しんだ頃から数え三十年程の冷酷な歳月が、

私から子供の目線を奪ってしまったのでしょうか。

二児の父として過ごすうちにかなり子供力が上がってきたな、

と慢心していた自分を、この絵本に指摘された気分でした。

うちの次男は、妻のことを自分だけのママだと主張します。

それを耳にした長男は当然、

自分のママでもあるんだぞと反論するのですが、

違う、お前のママはパパだ、次男は理不尽に言い返します。

次男の中では、長男はパパから生まれた子供で、

ママは自分だけのお母さんになっているようです。

確かに私は長男の遊び相手や世話焼きをすることが多く、

次男の相手は殆ど妻が勤めています。

別に夫婦の会議で子供の受け持ちを決定した訳ではなく、

小さい方の子供は自然と母親が面倒を看てしまうものですが、

そんな理屈に彼を頷かせる力はありません。

次男にとっては、ママはこの世における絶対者であり、

そこに抱かれれば世界の中心にいるような悦楽が得られるのでしょう。

世の中にはママと自分の二人だけがいれば

後はどうとでもなる、位の気持ちなのかもしれません。

頭の中の情報量が少なく精神も未発達な子供には、

子供なりの世の中に対する見かたがあります。

大人は成長する過程で、

周囲との摩擦からそれを取るに足らないものとして

どこかへ置き去りにしてしまいます。

しかし、ふと後ろを振り返り過去の思考を甦らすと、

案外それが、えも言われぬ輝きを発していることに気付くでしょう。

次々に積み重ねられてゆく知識に追いやられ、

あの時の気持ち、あの日の自分は、

もしかしたらどこかで迷子になっているのかもしれません。

それらを発見し、抱きしめてあげられるのが

子育ての大きな副産物ではないでしょうか。













  1. 2010/10/02(土) 23:37:03|
  2. 絵本
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